ずいぶん以前のことである。芝祐靖氏作曲の「古代歌謡による『天地相聞』」(確かこういう題名であったと思うが,誤っているかも知れない)が,NHK・FMで放送された。たいへん雄大で,荘厳で,古代日本人のナイーヴさがよく表現されていた。しかしどこか違和感も感じられた。使用されていた楽器は,概ね雅楽器であったので,これではない。どうも歌の方に問題があるように思えた。

 ところで,雅楽の創作曲の場合本紙第10号「雅楽随想」でも触れたが,作曲者の多くは,自らのイメージをできるだけ忠実に表現しようとするため五線譜を用いる。そうすると,それを演奏する奏者は限られてくる。雅楽器の場合はともかくとしても,歌が入っていると,五線譜を正確に読みとり,歌える人となると,洋楽畑で訓練を受けた歌手ということになる。

「古代歌謡による『天地相聞』」もおそらくそうした条件によるのであろう。洋楽畑の歌手を起用されたものと思う。

 この歌手は,もちろんプロであるから,音程,リズムも正確であるが,まわりの雅楽器とあまりにも似つかわしくない声なのである。一体どうしたことなのだろう。

 そんなことを漠然と考えていた時,たいへん興味深いことが書かれたある本にめぐり会った。昭和51年というから,おう五年ほど前に出版されたこの本は,現代日本を代表する作曲家の一人,團伊玖磨氏と民俗音楽の研究かとして著名な小泉見文夫氏の対談構成で『日本音楽の再発見』(講談社現代新書)と題されている。そこで團,小泉氏の意見を紹介したい。

「ベルカントの発声法(イタリアの歌唱法)で日本語の歌を歌うということ自体たいへんむずかしいことなのです」と,まず指摘し,現在日本のプロの声楽家が「西洋のテクニックを土台として日本語の歌を歌おうとして」いる点に警鐘を鳴らしている。

 また,布施明や森進一の発声法が新内,義太夫の伝統的手法によっていることに言及しつつ,「ベルカント唱法をちょっと手直ししたぐらいでは日本語の歌はほとんど歌えないのだということ,だからもっと根本から日本人の声を考え直さなくちゃならないということ」を主張している。結局「西洋の発声法で歌うと日本語のアイウエオという母音がどれも同じような響きになってしまう。そのためよけいに言葉が分からない歌になる。ところが,流行歌とか義太夫の人たちだとわりに誤飲の区別がつく」のである。

 また驚いたことに音楽教育の場面で,たとえば「芸大の音楽科ではいまだに日本語の歌を教えない」という。「音楽家の先生も学生も,ドイツの技法やイタリア式の発声法では日本語の歌は歌えないという現実に直面していない」

ともいう。これに対して,「しかし日本人として日本語をつねに話している人たちが,歌ったときに言葉として分からないということに自分で不満を感じないというのは,ちょっと驚愕的なことで」あるとまで言われている。

 合唱団に関して,「特別な西洋の発声を訓練を受けた合唱団はたしかにきれいな音はしますけれども,日本の歌を歌ったときには一語一語ほとんど分かりません」。「アマチュアの合唱団でないとわれわれの作品は生きられないなどと思うぐらい」といわれている点には,我が意を得た思いがしたのである。
 日本の歌とベルカント唱法
雅楽部報 《昭和56年2月26日 第35号所収》
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