ひとむかし前には,よく文化の問題について論じられた。天理文化の創造が言われた。
 ところが,最近あまりその声を聞かない。むしろ(文化を)「きりすてる」ことのほうがよく聞かれる。たとえば,以前から問題視されてた「ヒモロギ」は,教祖九十年祭の旬に,廃止になった。これに付随した祭儀式関係のことがらに関して,今までも「あれはなくさなければならない」と言われるものがある。玉串などもそうであろう。
 そのなかで,われわれが関心をよせるのは,雅楽である。ある人に言わせれば,「雅楽のようなものは,元来本教と直接関係があるものでないから,いずれなくさなければならないだろう」と,こうであろう。
 ところで,最近筆者の身内のものが出直し,先月,葬式をすませたところである。この式に際していろいろ考えさせられた。
 葬儀屋が当日,祭壇を組みにやってきた。できあがったところをみてみると,その両側に,例の「ヒモロギ」が置いてある。これは,もちろん装飾である。もし,「お道に直接関係のなものは,すべてきりすててしまうべきだ」という考え方からするならば,現時点において,各教会が葬式を,何の支障もなしに行えるだろうか。おそらく,できないだろう。斎員の装束から改めなければならないだろう。
「きりすてるべきだ」と考えるのはやさしい。問題は何をきりすて,何を残すか,そして,きりしてたあとはどうするかを考えられねば,この問題提起は無意味だと思う。「文化の創造」が言われなければならいのである。
 雅楽は,お道のなかにもうすっかり定着している。われわれは,これを,ひとつの「天理文化」として,祭儀式との関連がなくなっても,継承,発展させていけねばらないと思う。お道を表現する文化のひとつとして,雅楽をやってゆくべきだと思うのである。
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 今日のお道の文化は,いわば窒息状態で,ダイナミズムやイノヴェーションに乏しい。今必要なことは,窮屈な固定観念をすて,生きいきとした信仰を,文化として表現する努力,そして何よりもその雰囲気をつくることである。
 「つくること」と「きりすてること」 
雅楽部報 《昭和54年7月26日 第16号》
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