さまざまな反響 シュトックハウゼンの「四人の舞人と管絃のためのヒカリ」
雅楽部報 《昭和53年4月18日 第1号所収》

 昨年10月31日と11月1日,国立劇場で公演されたシュトックハウゼンの「四人の舞人と管絃のためのヒカリ」は,さまざまな反響を呼んでいる。

 シュトックハウゼンは西ドイツの作曲家で「二十世紀後半の音楽の歴史を創ってきた旗手であり」「今も第一線にあって世界に絶大な影響力を与えている巨匠である」という。
 彼は,「雅楽によって自分の思想を表現してみようと思っていない。そうではなく,雅楽から私が何を引き出すことができるかが問題なのだ」と語っているが,果たして何か新しいものを引き出したか? 

 その内容を,まず舞の面から見ると,舞楽を見なれた我々日本人には発想しがたい手法で創られている。舞人は四人で,それぞれ1000年,100年,10年,1年といった時を象徴している。これが演じられた年は1997年であったので,「1」(千年)の舞人は全曲終了までに「1」の字の上を一度通過する。「9」の舞人は「1」が一度行く間に9回,同様に舞う。以下「7」の舞人は「9」の舞人が一度行く間に7回(したがって63回),次の「7」の舞人は,さらに前の「7」の舞人が一回行くごとに7回(従って441回)行ったり来たりするといった具合である。その間四回にわたって悪魔(例えばヌード,オートバイ,10万円札のプラカード)が時の流れ,即ち舞と音楽を阻止しようとするが,天使の励ましによって再び時が流れる。このような舞である。

 一方音楽の方も,それぞれの時,「1000年」「100年」「10年」「1年」に笙,篳篥,笛,弾きもの,打物がそれぞれあてられており,時の流れを表現しているという。それらが,相互に関連なく演奏しつづけるのである。舞と同様にその間,悪魔−オートバイの音,ライオンの声,歌謡曲などによって演奏が中断されそうになるが,同様に天使に励まされ時が流れるといった具合である。

 さて,このような舞楽「ヒカリ」に対して「前衛の亡霊が咲かせたあだ花」(柴田南雄氏),「完成されたスタイルを持つ雅楽の体系の前に,シュトックハウゼンの才能すらはじきかえされた」(岩井宏之氏),「内容は空虚極まりない駄作,愚作であった」(松村真樹氏)などと,洋楽関係者達は溜息をついているらしい。それと反対に,東儀和太郎氏は「雅楽器の可能性を引き出した点で,音楽的には有意義だった」と述べている。

 われわれの眼から見れば,舞はいかにも西洋人らしく合理性に基づいており,機械的であり,作者の意図しているところは察知出来ても,舞楽のもっている「美しさ」は,全くそこなわれていると思う。

 音楽の方は,篳篥の使い方などに新しいところが見受けられるが,雅楽から何か新しいものを「引き出した」とは感じられない。雅楽の新曲を聞く度にいつも思うのであるが,新曲はプレイヤーの技量に大きく依存している。雅楽がもっと一般に普及し,すぐれたプレイヤーが出現して来れば,新しい可能性も開けると思うが…。
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